仏教のはじまりの人、お釈迦さまってどんな人?その生涯を解説

仏教

(当ページの商品リンクは広告を含んでいます)

日本には信教の自由があり、人は自分の思想に近い宗教を自由に選ぶことができます。

私自身も浄土宗のお墓がある家に生まれたこともあり仏教に親しみを感じてはいましたが、クリスマスにはケーキを食べたり、ふらっと教会を訪れたり、別の宗派のお寺に初詣に行ったり、ガチガチな信仰心などは持ち合わせていませんでした。日本人の多くの人は私と似たような感覚なんじゃないでしょうか。

仏教に関心のある人なら一度は耳にしたことがある「お釈迦さま」という存在ですが、実在した人物なのはご存じですか?「お釈迦さま」は、釈尊(しゃくそん)とも呼ばれています。また、「真理を覚った人」という意味でブッダ(仏陀)という呼び方もよく知られていますよね。

今回は仏教と深い関わりのある「お釈迦さま」の生涯をお話ししていきます。

スポンサーリンク

伝説の多い釈迦の誕生

お釈迦さまは本名をガウタマ・シッダールタ(パーリ語ではゴータマ・シッダッタ)といい、実在した人物です。紀元前5〜6世紀頃、現在のインド北部にあった小国に釈迦族の王子としてお生まれになりました。

北伝によれば春暖かな4月8日に、ルンビニー園という花園でお釈迦さまは誕生されたとされており、毎年4月8日は今でも「花祭り」として仏教行事が盛んに行われています。

お釈迦さまの伝説的な逸話として、誕生した直後に立ち上がって7歩歩き、あらゆる方角を眺めると「私は世界の第一人者である、私は世界の最年長者である、私は世界の最勝者である、これは最後の生まれである、もはや二度と生存はない」と堂々たる言葉を語ったとされています。日本では「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と説いたとも伝わっています。

俄には信じられない話ですが、このような言い伝えが残るほど、只者ではないことがわかりますよね。

そして、お釈迦さまは王子としてお生まれになったので、何不自由なく実に豊かな生活をされていました。経典には、お釈迦さまの回想として「私はこのうえなく安楽に生活していた。わが父の屋敷には、私だけのために三つの蓮池が掘られた。私のターバンも、ジャケットも、下着も、上着も、最高級のカーシー産だった。私のために昼夜とも白い傘が頭上にかけられていた。私には冬・夏・雨季の三つの季節のために、三つの宮殿があった。」とされています。

16歳(一説に19歳)で結婚し、数年後には息子のラーフラも授かっていて、豊かで幸福な生活を送っていたとされています。

満ち足りた生活を捨て出家する

さて、そんな夢のような生活を送るお釈迦さまは、なぜ出家したのでしょうか。

お釈迦さまの出家の動機は「四門出遊」(しもんしゅつゆう)という物語によって語られています。

お釈迦さまがある日、東の門から出かけようとしたときに、歯が抜けて腰の曲がった老人を目にしました。自らもいつかは年を取り、同じようになることを知りました。

別の日に、南の門から出かけようとしたお釈迦さまは、瘦せ衰えた病人を目にします。病にかかれば、誰もがあのような姿になることを知りました。

さらに今度は西の門から出かけようとしたところ、そこで葬式の行列を目にしました。骨と皮ばかりに痩せこけ動かなくなった死者が運ばれていく様子に動揺しました。

「人は皆、老・病・死という苦しみを経験しなければいけないのか」と絶望したお釈迦さまでしたが、最後に北門を出たときに出家者の堂々たる姿に出会い、そこに自分の進むべき道を見出して出家を決意したというお話です。   

この「四門出遊」(しもんしゅつゆう)は作り話ともされていますが、当時のインドは戦乱の時代だったため、王子だったお釈迦さまは「人間はどうすれば幸福になれるのか」と考えていました。そこでわかったのは、「結局どんなことをしても何の意味もないのではないか。みんな老いて病気になって死んでしまう。何をしても何の役にも立たない」という事実だったのです。

出家してからの苦行の日々

29歳のときに宮殿を後にして出家されたお釈迦さまは、教えを乞うためにアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという師のもとで瞑想修行に励みますが、納得できる答えを得られませんでした。やがて「自らの手で答えを見つけなければいけない」と考えたお釈迦さまは、直射日光を浴び続けたり、断食をしたり、肉体を苦しめるような過酷な修行に取り組むようになります。

そして6年もの長い期間、お釈迦さまは苦行を続けるものの覚りへたどり着くことはできませんでした。ついに苦行をやめ、ガンジス川の支流で身を清めます。衰弱しきったお釈迦さまでしたが、村娘のスジャータから乳粥を施され、徐々に体力も回復していきました。

苦行では解決しないことに気付いたお釈迦さまは菩提樹の下で座禅を組み、幾日も瞑想を行います。途中、悪魔の誘惑を受けながらも、人生の苦悩がおこる原因について考えを巡らしました。そして、ついに覚りの境地に至ります。それは、12月8日のことでお釈迦さまが35歳のときでした。 

お釈迦さまの覚りとは

お釈迦さまは深い内観によって人生のありのままの姿を観察し、苦悩の原因をつきとめ、これを解決する道を完成させました。

覚られたお釈迦さまの心は、さまざまな迷いと不安とが波の静まるように消え去り、静かな喜びに転じていきました。そして人生の真実の姿、宇宙の真理がひとつひとつ明らかになっていきました。

覚りの境地は、超能力や神通力といったものではありません。「覚り」とは、お釈迦さまが、自らの中から見いだした「生まれること・老いること・病気になること・死ぬこと」の4つの苦しみから人々を解放するための、欲望を離れた心穏やかな平安の境地のことなのです。

お釈迦さまの教えから現代の仏教へ

お釈迦さまは、覚りの境地に達してからも7週間という長い瞑想を続けて、使命についてお考えになったといいます。

「自分が覚った真理は、非常に奥深く、極めて難しい。たとえ人々に説いても、理解する者はほとんどいないだろう。」と躊躇していると、梵天が現れて「真理はいかに難しくても、それを理解するものは必ずいます。どうか、真理を人々に説くように。」と頼んだそうです。

そして、この言葉に揺り動かされたお釈迦さまは、以降約45年にわたりガンジス河の流域で教えを説いてまわられました。覚りとは智慧の完成です。智慧が完成することで、一切の苦しみからの解放を果たすとされ、お釈迦様はさまざまな工夫をして、人々が理解できるように説法したのです。

お釈迦さまが、全ての生き物の命の尊さを中心に、慈愛に満ちた心で広く説かれた仏教は、2500年以上にわたり人々に伝えられてきました。

現在に残る書物により、お釈迦さまには1,000人以上の弟子がいたことがわかっています。日本ではお釈迦様から信頼のあった10人の弟子を「十大弟子(じゅうだいでし)」と呼び、お釈迦さまが亡くなった後も弟子たちが中心となって経典をまとめ、仏教を広めたとされています。

まとめ

お釈迦さまの生涯は、覚りを開くまでの多くの苦労、そして覚りを開いてからの愛のある説法により、人々に生きる勇気を与えられました。

私たちは今、お釈迦さまからはじまった多くの道しるべをもとに、誰からも強制されることなく、自分自身を取り巻く環境の中から心の平安を求めることができるのです。

この記事を書いた人
makumin

愛知・東京に拠点をおく20代、趣味はアニメや漫画を見ること。

Webコンサル会社でSEOコンテンツを担当していた経験を活かして、
フリーランスのWebディレクターやSEOライターとして活動しています!

パートナーのためにベジ料理を研究し、
そこから美容や健康にも気を使うようになりました!

開運方法や引き寄せの法則を実践中です。

\まくみんをフォローで応援!/
makuminブログ - にほんブログ村
仏教心と体の癒し運気UP!
スポンサーリンク
こころ・まくみん